片山 摩利恵 – MARIE KATAYAMA

私にとってのミニマリズムとは

片山摩利恵

一般的な流行について

 人は常に新しいものを求めている。新しい流行、新しいファッション、新しい味、新しい携帯電話の機能など。テレビの世界でも、デビューしたければ既存のタレントには無い芸や、キャラクターを備えていないと注目されない。やっとデビューして、少しずつ人気が出てきたと思っていても、少しするとすぐにブームは去ったと言われ、お茶の間では「この人、今年いっぱいだよね。」などと勝手なことを言われる。そして人々から忘れ去られ、知らない間に次のアイドルや芸人らが登場している。テレビの世界ですべての人がこのように消えていくわけでは無いが、大半の芸能人が抱えている不安である。日々、消えては新しいものが出、消えては新しいものが出、の繰り返しである。

美術世界の流行について

 美術の世界にも流行というものが存在している。伝統工芸の世界も保守的に語り継がれたものを守るだけでなく、伝統を重んずる精神と、伝統で受け継いだものを基本に、新しいものを創造していっている。美術界で売れ、美術雑誌等に名前が載って華やかなデビューを飾りたければ、人がやっていないことを探し、オリジナルを追求して具現化する。或いはその時代に沿うような(ウケるような)表現方法で制作した方が有利だろうし、注目されるきっかけは増えるかもしれない。私もそうであるように、大半の絵描きは皆、自分の作品で人に衝撃を与えて認められたいし、共感されたいと思っている。出来るならば絵を描いて生きてゆきたい。しかし、すべての絵描きがそうしないのは、絵を描くことの本質は、名前が売れて名声を浴び、第一線で活躍することではないからである。第一、その時騒がれている流行を同じようにやってみてもその時点ですでに出遅れている。近年、作家はエンターティナーだと言う人もいるようだが、私たち絵描きは学者でなければならないのだ。今までの歴史を振り返り、分析して今までになかった表現を思考し、論理的に画面に打ち出す。学者は今までに論ぜられたことの範囲を確定し、そのうえに新しい発見を積み上げていく。絵描きも同様に、新しい表現法の発見者である。そうでなければ、生き残っていけないどころか、時代の一線には上がっていけない。

絵を描くことの本質

 しかし果たして、それが理想の絵描き人生なのだろうか。絵を描くことの始まりは皆同じだったはずである。欲しいものを想像したり、大切な家族を描いてみたり、自分の欲望を満たすために誰に何を言われるわけでもなく、衝動に身を任せ、ただ描きたいから描いていたはずである。今、美術大学院の学生として美術に携わる上で、たまに岐路に立たされているような感覚に陥ることがある。やはり趣味で絵を描いているわけではないので、自己満足の一方的な提示に終始させ、その観者を傍観者に留まらせてしまいたくはない。自分よがりな作品であっては本質から外れてしまうし、リアルに観者に伝えるためには、観者を意識して制作することは必要である。と同時に、自ら湧き上がるイメージや衝動は、濁すことなく大切にしたいと思う。描くことで自己から初き上がる直観的なイメージを具現化することで、心の発散に繋がることは皆同じはすだ。少し余談だが、私は制作において完成として筆を置いた時点で、作品は作品として成立すると考える。つまり、まだ誰も見たことがない星(宇宙)に生物が存在するであるように、無人島で誰にも発見されす、今後も誰にも見られることがない作品だとしても作品として成立するのではないかと考える。一方的な提示で終始させ、観者に何も衝動を与えられなかった作品があったとしたら、それはまるで無人島に眠って、誰からも見られない作品と同じことであるようにも感じるが、私は物体が主題をもった時点でどんな形態であれ作品として、‘存在’をもっているような気がする。どのような時代の流れであろうと、今日最も重要なことは、絵画とはそこに何が描かれているのは特に問題ではなく、そこに何が在るのか、何がみえるのかが重要なのである。

 先人は絵画において、その本質をどのように捉えてきたのであろうか。

ミニマリズム以前

 絵画の歴史の始まりは、ラスコー壁画やショーヴェ壁画などと一説では記されている。それらの絵を見たとき、抽象的な概念があると感じた。まだ文字を特たない段階で、写実的に見て書いたわけで無く、頭の中でイメージし、それを再現することができるということは高度な技術である。そして、時代に応じて表現方も変化してきた。宗教絵画でキリストやマリアを描き、人々は描かれたものを崇め、絶対的なまなざしで見ていたのかもしれない。まだ写真が存在しない時代は、あるがままを写し取ったように写実的に描き、手仕事を行う職人が宮廷画家という職業として存在していた。15世紀には‘芸術家’が台頭し、凡人が到底及び難い創作活動を行う芸術家は、教阜や皇帝など聖俗の最高権力者からさえも、敬意をもって扱われた。芸術家たちは現実を超えた理想性と優美さを作品において追及し、スフマートや空気遠近法など駟使し、西洋絵画の様相を一変させていった。時代は盛期ルネサンスから17世紀のパロック美術へと移り、近代へと発展してゆく。絵画における写実的、現実的な傾向は、19世紀の西欧社会全体を背景とする大きな流れであった。しかし、歴史画を頂点とする伝統的な位階制度に挑戦したクールべやミレーは、新しい近代絵画の出発点をなすものであった。

ミニマリズムの萌芽

 このように、新しい時代を創り出されると同時に、新しい表現方や技法が生み出されていった。恐らく先人たちも、現代を生きて創作活動を行う私たち同様、新しい表現方や技法はやりつくされたと思いながらも(絵画は終わったなど)まだ何かあるはすだと自問自答し、模索してきたに違いない。

 19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパの絵画界を中心に発生した印象派は、写実主義から抽象主義への変化の初期段階であると考えられている。光を描くことを追求し、その後の芸術全般に大きな影響を与えている。1940年代前半、第2次世界大戦の戦火を避けて、ヨーロッパからニューヨークへあらゆる種類の前衛芸術家が亡命した。アメリカの若い画家たちは、シュルレアリスムの影響を受け、伸び悩んでいたモダニズムが全面的に開花し、美術の中心はニューヨークへと移っていった。1910年代前半から始まった抽象絵画は世界大戦を背景に、1940年代後半から1950年代までアメリカの抽象表現主義者たちによって全盛期を迎える。抽象表現主義者たちはヨーロッパ的なイーゼル絵画を打ち破り、キュビスム的絵画を全面に否定し新しい空間の概念を打ち出した、と私は理解している。

ミニマリズムの隆盛

 1960年代になるとアメリカ美術の流れは抽象表現主義からミニマリズムの時代に移っていった。ミニマリズムの作家たちは巨大なキャンパスを使い、キャンパスを格闘技場とたとえ、絵画で理論を表出していく抽象表現主義者とは完全に異なり、クールで手業や巧妙な技術を感じさせない最小限の手法で作品を作り出した。例えば作家は作品の設計のみを行い、工場などで作ってもらう、等である。それは、芸術家らしいことをしなくても作品は創れると思わせた。抽象表現主義のように内面を吐き出すような、剥き出しな表現の反動から生まれたのがミニマリストである。(抽象表現主義者と言われた美術家たちの中には、単に抽象であって感情表現をあらわにしなかったり重視しなかったりする者も含まれてしまっているが)同時にポップアートも流行し、大量生産・大量消費社会をテーマとして大衆芸術が示された。(乱暴な言い方をするが、美術史的には面白くないものになっていったと言われるだけでスタンダードに抽象絵画は今もなお続いている)

 このミニマルアートの代表的な作家のひとりに、ドナルド・ジャッドに並んでフランク・ステラ(1986年−)が挙げられる。ステラはミニマル的な表現を平面から始め、絵画を最低限の要素に切り詰め、彼は「人は画面に見えるものしか見ないはすだ」と提言した。そして、絵画からイメージを排除してしまい、最低限の要素で成り立つ絵画を考えた。1958年から始まるプラックシリーズは、黒のエナメル料でただストライプを描いただけのもので、ストライプの幅はアルバイトで愛用した2.5インチ(6.4cm)の装用の刷毛の幅そのままに塗られ、わずかに諭り残された画面の白さがそれぞれのストライプを分けている。

 金属板や木片を床に敷き詰めるインスタレーションで知られる、カール・アンドレはステラの初期の作品についてこのようなコメントを残した。「・・・芸術は不必要なものを排除する。フランク・ステラは縞を描くことを必然的だと感じた。それ以外に彼の絵には何もない。フランク・ステラは表現や感性には興味を持たない。彼に興味のあるのは絵画の必然性だ。象徴は人々の手から手へとわたる模造通貨だ。フランク・ステラの絵は象徴的でない。彼の縞はカンヴァスの上を筆が通った通路である。これらの通路は、ただ、絵画に行きつくだけだ」

ミニマリズムの終焉

 「ステラの絵は象徴的でない」とは、彼の絵画がイメージを排した芸術表現であることを指している。象徴的な要素を排除し、枠組みをなぞるだけの作品が、芸術といえるのだろうか。確かにこの考えは、従来の抽象表現主義の考えを覆しているように感じ、‘絵画とは何か’という問いに対しての一つになるかもしれない。しかし、私はこの作品、また考えに美的要素を感じることができない。美的要素と一言で言ってしまうと、あまりにも漠然としてしまうが、絵画とはそこに空間が生まれてこそ絵画作品として成立するのであって、イリュージョンを生み出すことで、2次的3次的空間を創るのである。そして、ステラの作品はストライプをより際立たせるため、ストライプ以外の余白を切り取り(シェイプト・キャンヴァス)、絵画を還元してゆく。そこには従来の絵画の概念は存在せず、絵画の表現を削ぎ落とすこと自体、絵画の終わりをなぞることを意味している。80年代になるとサーキット・シリーズで平面の幾何学形態から離れ立体に向かい、更にはすべてが混然とした有機的な混沌に向かう。こうして彼は、以前の絵画の作品からレリーフ状に、葛藤を発展させていくが、それは単なる表現において使用する素材の差異であり、絵画における根本的な問題について論議させるものではない。さらに、その巨大なレリーフ作品は、抽象でありながら人工的に構築した空間である。皮肉にも、それはステラが嫌悪した、最もアカデミックな均衡によって成立した空間であり、着彩された半立体の作品は私にはキュビスム作品を立体化し、キュビスム的空間に退行してしまったように見えてしまう。

ミニマリズムが与えた影響

 この絵画的空間について、ミニマリズムの代表としてもっとも際立った仕事をした作家はパーネット・ニューマン(1905年−1970年)が挙げられるであろう。1940年代、最初はシュルレアリスム風の作品を試したが(彼は肯定しないが、自動筆記法に見える作品も初期に制作している)やがて独自のスタイルを築き上げた。彼の画面は、巨大な色面に縦線(ジップ)が描かれているだけの作品か特徴である。1948年以降の「Onement」シリーズによって自己のスタイルが確立された。絵画のサイズが意味するものとして、スケールとは単純にタブローの大きさのことではなく、スケールの大きさの革命的な意味をもたらし、従来の絵画次元に新しい光を導いた。彼は1970年Emile de Antonioのインタビューにて「私は、私のZIPが私の絵を分割しているとは感じていなかった。それはまさに正反対のことをするものであった。それはフォーマットを半分、あるいは色々な個所で切断していなかった。全く反対に、それは統合していたのである。それは全体性を生み出していた。この点で、私は他の知的な見方から、つまりいわゆるストライプ(と見ること)から、できるだけ離れているのを感じていた」と言い、シルヴェスターが「線」もまたフィールドではないのかと尋ねたとき、ニューマンはそれを肯定し、「あるフィールドは他のフィールドに生命をもたらします。ちょうど他のフィールドがこの<線>と呼ばれているものに生命をもたらすようにです」と答えていた。

 私は、この言葉を読み取り、スケールを感じることでフィールドが生まれるのではないだろうかと思う。当時の作家たち同様、ニューマンも革命としての芸術とういう考え方に熱烈に信奉し、彼は特に自分の過去の作品とはさっぱり手を切るような実践だけが意味のあるものとして見えていた。このように ミニマリズムとは、抽象表現主義を打ち破り、時代を反映した結果生まれた流れで、従来の絵画や彫刻のように自立的で固定的なフォルムを備えた視覚の対象となる物体ではなく、絵画とはなにかを問いただし、またその後のポップアートやオプアート、コンセプチュアルアートを生み出すきっかけである。それは、絵画において写真や映像が当たり前に生活の中にあることも要因の一つだと感じるが、現在のコンセプトありきな作品がたくさんあるのは閉塞感を感じている。何が描かれているのかを理解し、納得しながら鑑賞する人が多くいる。正直なところ、純粋な絵画空間を求めている平面絵画と、コンセプト重視の作品が、このように同列に扱われるのには不満を感じている。

 では今を生きる私たちが創る絵画とは何か。私は抽象画を描いているが、果たして今、抽象表現でいいのか。日本のミニマリズムの作家、山田正亮(1930−2020)は、反復の縞という作品でミニマリズムの作家と言われているが、1960年代の彼の作品からみても、オールオーヴァーで、縦横に広がるような空間を作り出し、絵画の中で独自の空間を生み出している。また現代作家である中村一美は(1956−)キュビスム的要素を排除し、広がるような空間を創ることを論じている。これはアメリカの戦後の現代アート作家が目指してきたことでもあるが、その先を見る目を持たなければと感じている。

時代を反映する

 ミニマリズムであろうとその前の時代の作品であろうと、作品とはどのような形態であれ、常に時代を反映しているものである。美術の歴史を紐解くだけでなく、先日私は開智小学校で歴代の学生の絵をみて、日本の図工の初等教育からもそれを見てとれることを体感することができた。

 臨画教育から始まったころは、写実的に写し取ることが良いとみなされたが、大正デモクラシーの時代は大正自由教育運動によって、社会的雰囲気を背景に児童の自由・自主・自発、個性を重視する教育の思想や実践が華々しく展開されることとなった。そのため、自由主義・児童中心主義の教育思潮を背景にそれを教育実践として展開すべく、いわゆる「新学校」が全国各地に設立され、同時に新しい芸術教育運動も起こった。絵画だけでなく、そのほかの芸術分野も、1918年鈴木三重吉は詩人の北原白秋、画家の清水良雄らの協力により雑誌『赤い鳥』を創刊し、新しい児童文学運動を展開した。さらに、山本鼎に代表される自由画教育運動が全国に展開され、戦争に向かう前のこの一時代は、芸術が豊かに花開き、社会の豊かさを繁栄していると見ることが出来る。一方、昭和に入り、日本全体が戦争ムードー色になり戦争の絵しか描いてはいけなくなると、児童画も硬直したものになっていく。

 ここで発見したことは、大正デモクラシーから自由画教育運動の間の時代の児童画は、現代の児童画との共通点画認められることである。それはおそらく生活が豊かで安定していたことの反映ではないかと考えられる。

ここにいるということ

 時代の大きな変動と共に新しいアートが生み出されている。ニューマンがユダヤ人として混沌な時代を知った上で作品があるのと同様、私たちも今の世界の流れの中で生み出す作品が在るのである。

 ニューマン夫妻は、休暇旅行でインディアン塚を訪れる。そこで彼はかってないほどの感動的な空間を体験することとなる。「その場所を見ていると感じるのです。‘私はここにいる、 ここに・・・’そして向こう側には混沌が、自然、川、風景が在る・・・しかしここでは、自分はたしかに存在しているという実感があるのです・・・こうして私は見る者をそこに在らしめるという考えにとらわれるようになったのです。つまり、人間は現前しているという考えに」ニューマンの作品のタイトルにもある「そこではない一ここ」にもあるように、自分が今まさにここに存在しているのだと実感させるような作品をつくるということ。私に、この言葉をまさに体感する出来事があった。

在ることについての体験

 今から3年近く前になるが、14年間飼っていた愛大が亡くなったときのことである。それまでの私は、生きていること、いま生きていることが何かよくわかっていなかった。当たり前のこと過ぎて自分がいま生きている実感もないし、自分の周囲の家族や友人が生きていることがわからなかった。ある日突然、愛大ミッキーが泡を吹き痙攣をおこして倒れた。その後の数日間は闘病生活に入るが、耳の中の腫鴫があまりにもひどく、出血していた。その時私は初めて『死』を実感し、瞬時に恐怖を感じた。しかし、変なことにそれと同時に『生』をも感じたのである。赤い血を見たとき、生きているから血が出て、生きているから痛みや苦しみを感じる、今生きているんだと強く実感した。そして、教えてくれている気がした。生きているから全身に暖かい血が流れ、生きているから今という瞬間がある。生きていなければ、今は存在しない。ミッキーとのお別れの瞬間が今も忘れられない。私は今を止めたくて、今という瞬間を残したくて、夢中でもがき苦しむミッキーを写真に撮っていた。後からになって考えてみれば、生き地獄の状況の中で写真を撮るなんて、大変可哀そうなことをしてしまったと反省している。ニューマンが今ここに現前していること、自分が在ることを作品にしているが、その感覚はこの体験で感じたものと繋がるのではないかと、私はそこに究極の何かを感じている。

自分とミニマリズム

 今まで私はミニマリズムと流行についてみてきたが、 ミニマリズムとは戦後のアメリカの抽象表現主義を倒すために生まれた流れである。つまりミニマリズムは抽象表現主義者たちを否定し、同時に社会が資本主義・商業主義に変わっていく中で生み出された流れである。ミニマリズムやほぼ同時に生まれたポップアートのその先にコンセプチャルアートがあるが、それは現代のアート表現のべースになっている。しかし、 ミニマリズム的な形態の表現は、絵画の本質である絵画的空間について説いたものではない(ただしニューマンは絵画空間という新しい概念を作って、それが現代にも響いている)。現代を生きる私たちはそのコンセプトありきの作品でいくのではなく、ニューマンが求めたように現代の社会の流れをベースに、新しい絵画的空間について追求すべきなのではないか。

 私にとってミニマリズムとは、私が想像もできないくらい莫大な先人の歴史の集積のひとつである。私は、今を生きていることを理解し、絵画というものの発展を紡ぐようにつないでいかなければならないとひそかに思っている。吉川英治の言葉で「我思う、我以外師」という言葉がある。私も何事も謙虚な気持ちをもって、今あるものではない何かを具現化していきたい。

 では、絵画空間とは何か。私が今、漢然と感じていることは、単に画面内部から感じられるような奥行きや、遠近法的な、3次元のありきたりなものではなく、作品が窓のような役割をもち、作品自体が3次元の中で存在している気配を感じられるようなものであって欲しい。それは、まるで発光体のような、そこに在る感覚である。色彩や形体、構図で光を描くことで、そこに生命を感じさせたいと願うのだ。(敬称略)

 

参考文献

「アメリカ抽象絵画の巨匠パーネット・ニューマン」 制作・発行:川村記念美術館

「四洋美術史」美術出版社監修:高階秀爾

「ウイキペディア」フリー百科事典

「美術手帳」ロビンソンの鳥は死んだよ 東野芳明1983. 1

Sixteen Americans’ exhibition catalogue, Museum of Modern Art, New York, 1959.

 

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